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〜迷っても悟っても仏さまの中〜



〒607-8080 京都市山科区竹鼻竹ノ街道町72

開山 日勇聖人real estate

 護国寺を開かれた日勇聖人は公家で参議、西洞院時直の子で、慶長九年(1604)に誕生されました。幼名を梅松麿といい、幼少の頃から聡明で、常々俗塵から離れたいと思っていました。そこで父の時直は身延山久遠寺の第二十四世である、顕是院日要上人と親交があったので、梅松麿が十三、四才になった時、身延に登って日要上人に預けました。十五才になると梅松麿は出家し、天慧と名前を改め、後に日勇と号しました。その後も身延山での修行に明け暮れましたが、寛永のはじめ、二十才前後の時懇請されて、京都の本山 妙傳寺の十四世として入山しました。
 日勇聖人は日頃から京都に土地を求めて檀林(僧侶の学校)を興し、四海帰妙(皆が法華経を信仰し、仏の国を作ること)の教化を助けたいと思っていましたが、ある日、現在の山科に元真言宗の護国院という廃寺跡があると聞き、わざわざ出向いて土地を見て、地相・環境とも申し分ないとして、この地を求めました。
 こうして山科の地に一寺を造営することになりましたが、公家の参議、四条隆術の妻である妙慧院殿は、日勇聖人に深い帰依を寄せていましたので、日勇聖人の志を助けようと浄財を寄進し、自ら開基檀那として寛永二十年(1643)三月、護国寺を開創しました。
 更に紀州徳川家の二代藩主である徳川光貞とその妻、安宮照子(天真院殿)は総門と学寮を建て、ここに日勇聖人は大願を満たし、山科檀林を開闢し、台当(天台教学と日蓮教学)を講じました。
 正保年中に時の天皇、後水尾天皇と皇后の東福門院は、日勇聖人の高徳を伝え聞かれ、宮中にて法華経の講義を聴聞されました。大変お喜びになって方丈・大講堂を寄進。更には東福門院自ら縫った菊の御紋・金紋袈裟を二領下賜されました。
日蓮宗初の金紋袈裟と伝わっています。以後、山科檀林の歴代化主(住職)は着衣を許され登檀しました。のちに日勇聖人は二領の内、一つを本山 妙傳寺へ送り、残る一領を護国寺の寺宝として付し、現に格護されています。
 日勇聖人のもとには多くの学僧が集まり、教学が大いに興隆します。慶安元年(1648)に弟子の寂遠院日通上人に講務を譲り、慶安3年(1650)十二月二十三日、護国寺(山科檀林)にて遷化されました。世寿四十七歳。護国寺に埋葬され、廟が建立されております。
縁祖額勇師