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〜迷っても悟っても仏さまの中〜

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〒607-8080 京都市山科区竹鼻竹ノ街道町72
e-mail. gokokuji5594@yahoo.co.jp

由緒沿革detail

護国寺の縁起

当山は山号を了光山。寺号を護国寺といい、1643(寛永20)年3月に法性院日勇聖人によって開創された日蓮宗のお寺です。また明治5年までの230年間、僧侶の修行興学道場である山科檀林として栄え、関西六檀林のひとつでありました。
 歴代の住職は、化主(けしゅ)と呼ばれ学徳全てが備わっていないとなれず、京都東山にある本山 妙傳寺の猊座をはじめ、総本山である身延山久遠寺の法主の猊座に何人もすすまれています。
 しかし、1872(明治5)年に山科檀林が廃止されると、廃仏毀釈により学室・学寮を失い、20年間住職が常住せず境内は荒れ果てました。1892(明治25)年にようやく東音院日瑞上人が入寺され、荒地を開墾し私財を投じて諸堂を移転修理されました。在職25年、その功績から中興の祖と仰がれています。
 山科檀林としての役目を終えた今、地域に開かれたお寺を目指し、日々布教活動に邁進しています。

物件イメージ01
総門 〜紀州徳川家 寄進〜

護国寺で唯一開創当時から残る、欅造りの門です。開山の日勇聖人に深く帰依していた紀州徳川家・二代藩主である徳川光貞とその妻、安宮照子(天真院殿)が願主となって建立されました。またその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主として名前を連ねています。

物件イメージ02

本堂 〜護国寺の中心〜

現本堂は、老朽化した昔の本堂を昭和三十七年に現在地へ移転新築したものです。鉄筋造りの本堂は当時としては珍しく、多くのマスメデイアによって紹介されました。

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鐘楼 〜除夜の鐘〜

鐘楼は第六世の寂耀院日啓上人の建立。梵鐘は元政上人の弟子、大中院日孝上人の撰名でありましたが、第二次世界大戦に応召され帰らず、昭和三十七年に新鋳されました。

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墓地 〜安らかに〜

護国寺(山科檀林)歴代の化主や、修行僧をはじめ、開基檀那の四条家(妙慧院殿・慧光院殿)の墓、そして護国寺の檀家の墓が祀られています。

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開山廟 〜日勇聖人の御廟〜

護国寺を開かれた法性院日勇聖人、第二世の寂遠院日通上人、第四世の発心院日堯上人の廟墓です。廟自体は、昔の妙見堂を移築したものです。

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香風廟 〜永代供養墓〜

平成10年に篤信の方の発願により建立された永代供養墓です。そのこころは、一つには歴代上人への御報恩。二つにはご先祖様への供養。三つには、みほとけのお導きによって当山に縁を持ち、日々の信行に励み、この世の寿命尽きたのちには、ここで供養を受けることを望む人達のための廟墓です。日蓮宗の方ならどなたでもお入り下さることができます。

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だんじょの水 〜洗い仏〜

護国寺から南東にある商店街の一角に「だんじょの水」はあります。昔この地は長く水不足で苦労する所でした。村民たちは護国寺の僧侶と一体となって用水工事を完成させ、それ以来「だんじょの水」と呼ばれています。時期は元禄三年(1690)と伝わっています。現在も近隣交流の核として機能し、浄行菩薩が安置されています。


護国寺

宗派 日蓮宗 旧跡 山科檀林
山号 了光山 通称 だんじょ
寺号 護国寺 中興 東音院日瑞上人
創建 1643(寛永20)年 御廟所 日勇・日通・日堯聖人
開山 法性院日勇聖人 寺宝 下賜金紋袈裟・その他多数
開基 妙慧院殿了光日耀大姉(四条家) 住職
上田尚教

『拾遺都名所図会』〜昔の護国寺の風景〜

往時、四千坪に及んだ護国寺は、江戸時代の1787(天明7)年に発刊された『拾遺都名所図会』巻之二に紹介されています。『拾遺都名所図会』は今でいう観光ガイドブックで、京都の名所を紹介しベストセラーとなりました。
 境内地の中(三条通りと醍醐街道の交差点)には「馬場」があり、1900(明治33)年に廃止されるまで「護国寺の馬場」と呼ばれていました。また、護国寺は、多くの僧侶が修行する場所(山科檀林)から「だんじょ」と呼ばれ、1819(文政2)年には竹鼻村(現在の竹鼻竹ノ街道町)で三条街道に面する一軒の餅屋が商売をはじめ、明治元年まで「だんじょ餅」を販売していました。

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